Paintings 2021 - 1979

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私が日本の美術大学で教えることになった、最初のきっかけはヨシトからのお誘いによっ てでした。それから20年近い時間が経ちます。お互い人生において大きな変化もありまし た。私は東京から長野県に移住し、アートワールドから距離を置く生活を送ってきまし た。ヨシトは大病を体験し、非常に深刻な時間を体験しました。このような生きる時間の 中、いつも年には数回会って、アートについて話をしてきました。これが私たちの友情の 最も深いところだと思っています。このような長いお付き合いから少しだけ私からヨシト の作品について語りたいと思います。

今回の展覧会には主に新しい作品が展示されています。私が初めてこれを(オンライン で)見た時、前の作品と大きく変わった印象を受けました。ヨシトともこれについて話も して、2012年の病気以降から大きく絵画に対しての実体験が変わったことを確認しまし た。近代美術の中ではあまりアーティストの個人的な体験、病気などの「プライベート」 なことは語られてなかったとも思います。アウトサイダーアートと対照的に、モダンアー トは作品そのものに重点を置いてきたと言えるでしょう。しかし、これは大きく見直され ていると思います。作品を制作する人の身体的、精神的あるいは個人的事情も制作に影響 を及ぼすことは認識されていると思います。ヨシトの場合、深刻な病気の経験は大きな出 来事で、作品制作やアートを考えることにおいても強い影響を及ぼしたと言えるでしょ う。私は、彼の2012年以降の作品には大きな寛大さと喜びを感じます。展覧会のタイトル の「喜び(=JOY)」は非常に正直な表現だと思います。もちろんこれを感じ取ったこと にはヨシトのそれまでの作品を知っていて、過去と比べられることから感じる印象です。 どうして絵具と和紙からこのような感情や気持ちを感じるのでしょう?

1960年代アメリカの画家フランク・ステラはヨーロッパ絵画の表現的、錯覚性を否定 し、絵画を物質主義、あるいは産業的なプロセスとして考えました。「私の絵画は目の前 にあるものだけだ、オブジェだ、見ているものは見ているもの、それ以外のことはない」 と彼は話しています。ヨシトの作品も非常に物質的な要素があると思います。長い時間の 中、絵具を和紙に乗せたり、飛ばしたりするプロセスから生まれているのです。作品には まるで深い地質層のような時間のドキュメントがあります。しかし、ヨシトはあまりこの 表面に関して特定した意味や感情をつけません。言葉があるとすれば「詩」を選んでいます。作品にはアーティストから生まれた「ステートメント」や「声明」的な言葉はあまり ない。このような視点から考えると、ヨシトの作品はステラが強調した物質性に近いのか もしれません。

しかし、もう一つ重要な要素がヨシトの作品にはあると思っています。これはステラには ないと思う要素です。ヨシトはよく、古代中国や日本の骨董について話をします。二人で よく中国宋時代の山水画について話をしました。古い陶器の表面に感じ取れる微妙な陰 影、複雑な模様の無限性やそこから感じ取る気持ち。このような美学の歴史について二人 でよく考えてきました。私は特に中国宋時代の絵画は大好きで、いまだにそれを超えた絵 の表現は体験していないと思っています。美術史学者のエルンスト・ゴンブリッチも指摘 したように、中国の山水画もある意味では非常に物質性が高い表現と言えるでしょう。あ まり画家の主体性が前面に出ると言うよりも、細かく示された正しいものの描き方に基づ いて、追求された絵画でもあるからです。

しかし古典中国絵画の美学にはもう一つ重要な要素があるように思います。それは、物質 的で「型」をベースにした表現に、絵師や鑑賞者の意識状態が重要な要素を果たすことで す。絵師は作品を制作する前には様々な準備をしないと、良い絵は描けないとされてきま した。これは宋時代の文献に細かく記述されています。例えば、作品制作する時には窓を 開けて、新鮮な空気を入れる、着ている服を緩める、お香を焚く、そして瞑想を通して心 を落ち着かせる...この準備ができて、初めて筆を手に持つのです。絵の鑑賞に関しても、 同じように宋時代には「ガイド」がありました。最も興味深いのは作品を暗めの部屋に置 いて、2、3日かけてゆっくり鑑賞することです。鑑賞は作品の物質的な形から意識を「高める」ことが可能になる行為です。つまり、ステラが話す絵画の「単なる絵具とキャンバ ス」の物質性が漢方薬のように人間の身体と心に影響を及ぼすことが想定されていたので す。このような考え方はもちろん20世紀の美術にもありました。ステラと同じ時代に絵画 を制作していたアグネス・マーティンやマーク・トビーを例に挙げることが出来るでしょ う。ヨシトの作品にもこのような「漢方薬的な」要素があると思います。これはおそら く、本人にとって心をケアしてきたプロセスでもあり、作品を見る人たちにも影響がある と言えるでしょう。

ここで述べていることは今の時代においても非常に響く要素があるとも考えています。 今、我々は近代文明が追求してきた完全物質主義の限界に生きていると言えるでしょう。気候変動による危機、生命の絶滅などの症状のように、自然界を単なる物質資源として考 えてきた結果の一つが今深刻な状況を作り出しているのではないでしょうか。物質には もっと複雑な関係性や何かしらの「意識」もあるのではないか。このような考え方は近代 以前には多くあり、先住民族がいまだに持っています。人間はなぜ環境に対して支配的な 行動をとってきたのでしょうか。なぜ我々の生活を他の要素から切り離すことができたの でしょうか。我々は今、このようなことを考え直す重要な視点に今立っているのではない か?実はすべての生命や物質とつながっていて、複雑な関係性の中で生きているのではな いか?この意識から生まれてくる行動や倫理観はどのようなものなのか? 絵画も地球から生まれた物質を使って行われる活動です。絵具、顔料、キャンバスなど。 私は、宋時代の絵師たちはこれをよく理解していたと思っています。絵は地球そのもの ――木、水、墨(火)、風――でもあること。そしてこのような要素と人間の心や感情は深く繋がって関係していること。今、この事実を絵画を通して共有することは人類の大事 な一つの作業だと思います。アグネス・マーティンはこう述べています。「芸術作品は、 私たちの生命への献身を表している」。

ヨシトの作品を観察している時、この生命のエネルギーがはっきりと感じられると思いま す。そこには絵画の「錬金術」的要素があり、物質、鑑賞、肉体、感情や時間の流れが総 合的に関係していると言えるでしょう。そしてやはり絵画には我々の理性や言語を「超え る」何かがあることが意識に浮かんでくるのです。フランスの美術史学者ジョルジュ・ ディディ=ユベルマンは画家、フラ・アンジェリコについて非常に興味深い記述をしてい ます。彼いわく、『絵画を深く、丁寧に見るとき、「知識を手放す」瞬間がある』と。そ れは、絵画を言葉や理性で「掴む」ことを諦めて、一時的に「宙吊り状態」のように鑑賞 することです。これにはリスクもありますが、絵画に取り憑かれる喜びや快楽もあるので はないでしょうか?ヨシトの作品を見てる時、私にとってこのような「リスク」と深い喜 びを経験できる瞬間と思っています。それには、作品と出会う準備がそれなりに大事で しょう。作品を見る方法は様々ありますが、私にとっては、それはできるだけ安易な態度 ではなく、リスクも背負って、「宙吊り状態」を促す行為だと思っています。そこから「よ り高い喜び――古典インド美学ではPara-Nirvrtiと呼ばれています――」、美学的な喜びを超えた、純粋な喜びが体験できるのだと、私は考えています。